乳川の名前の由来を初めて知ったって話と舟方さま

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下の写真は、毎日のように通る乳房橋から眺めた乳川(正しくは中房川と合流後なので穂高川ですが)です。この名前から、なんで、「乳川」って言うんだろうと当然のごとく疑問に思うわけですけど、川原に下りてみると花崗岩由来の川砂が白いので、そこから、「乳川」って言うのだろうと僕は勝手に思っていました。ネットで調べても、あちこちのブログに、地元の人に、そう聞いたなんてのが、書かれています。とは言っても、同じ花崗岩由来なら、中房川の方が、乳川より遥かに白いにイメージがあるので、なんとなく疑問には思っていました・・・。(^^;

乳房橋から見る夏の乳川(穂高川)

乳房橋から見る夏の乳川

 

昨日、松川村でたまたま、乳川の写真でも撮ろうかと車を下りました。

松川村、ちひろ美術館近くの乳川

松川村ちひろ美術館近くの乳川

 

そこで「乳川物語」という看板を目にして、初めて、乳川の名前の由来を知ったって話です。(^^;

乳川物語の看板

乳川物語の看板

 

看板には、次のように書かれてます。

歴史と伝説の舟方遊歩道
“乳川物語”

《乳川のいわれ》
乳川は餓鬼岳に源を発する川ですが、その源をたどって行くと、餓鬼岳の東側面の大きな二つの岩にぶつかります。その岩はちょうどお母さんの乳房の形をしている所から乳岩といわれ、そこからポトポトと落ちる水が集まって流れるところから乳川といわれるようになったそうです。
この河の流れは安曇野市明科の押野崎で高瀬川と梓川と合流して犀川となり、善光寺平(長野市)へと流れ川中島の古戦場でさらに千曲川と合流して、越後(新潟県)の県境では名をかえ信濃川となって、日本海にたどり着きます。
この乳川物語は餓鬼岳から日本海への遥かなる旅路でもあります。

槍でわかれた梓と高瀬めぐり合うのは押野崎
(正調安曇節)

細野地区環境保全の会 2009年9月

川の砂の色から乳川と言うってのに、なんか、しっくり来ていなかった僕としては、「そうだったのか!」って感じで、すごく納得しました。川の源が乳川の名前の由来だったんですね!!(^^)

 

この松川村の乳川沿いの舟方遊歩道には、他にも看板が立っていました。

舟方さまと鈴虫の看板

 

こちらの看板には松川村の鈴虫の里の由来が次のように書かれていやした。

歴史と伝説の舟方遊歩道
“舟方さまと鈴虫”

昔、有明山の麓に、京の都から一人の姫が落ちのびてきました。村人は高貴なお方と遠目にするうちに、姫は越前の金ケ崎城で足利尊氏に敗れて自害しました後醍醐天皇の皇子で、尊良親王のお妃、お舟の方であることを知りました。そこで村人は「舟方さま」とお呼びしてうやまっておりました。秋の七草が一面に咲く頃になりますと、舟方さまのお屋敷からはなんとも澄みきった虫の音が「リーン リーン」と聞こえました。それはこれまで村人は一度も聞いたことのない虫の音でした。村人はじっとその虫の音に耳を傾け、これはきっと、京に鳴く虫の音にちがいないと思ったのです。その虫の音は年を追うごとにしだいに増え、舟方さまのお屋敷から西の神戸ヶ原へと広がって行ったのです。そして舟方さまも年老いて、再び京に帰る夢もむなしく、この地で静かに息をひきとりました。しかし、舟方さまが京から深い想いと共にたずさえてきた鈴虫だけわ今も松川村の“神戸の原”《現在は西原地区》で変わらぬ音色を奏でておるのでした。

千草八草 神戸の原で 銀の鈴振る 虫の声
《正調安曇節》

細野地区環境保全の会 2009年7月

 

ちなみに、看板の最後に出てくる「正調安曇節」ってのは、この松川村を発祥とする民謡で、村の無形文化財に指定されているそうです。

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YASUKE YAMURA

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