世界が称賛した『神風』 飯沼飛行士記念館

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神風特攻隊が出来る、ずっと以前に、世界が賞賛した神風と、リンドバーグのように世界をアッと言わせた飛行士が日本にいたことを知っている人は意外と少ないのかもしれません。それが安曇野出身の飯沼正明飛行士です。安曇野市豊科には、その飯沼飛行士の記念館があります。 飯沼飛行士は、塚越機関士と共に、操縦士として、国産機『神風』号に乗り込み、昭和12年4月、東京・ロンドン間15,357キロを、94時間17分56秒、実際の飛行時間51時間19分23秒という当時としては驚異的なスピードで飛行し、日本初の航空世界新記録を樹立し、大西洋横断飛行を成し遂げたリンドバーグと共に世界的な名パイロットと称賛されました。

 

左:飯沼飛行士(当時26歳) 右:塚越機関士(当時38歳) 飯沼飛行士と塚越機関士

 

『神風』号 三菱重工業制作
神風号

 

神風号が着陸したロンドン郊外のクロイドン飛行場では群衆の熱狂的な歓迎を受けました。颯爽と降り立った飯沼飛行士は長身のスラリとした美男子で、ヨーロッパの人々が抱いていた日本人のイメージとはあまりにも、かけ離れており、その容姿にもヨーロッパの人々は驚いたそうです。

クロイドン飛行場で群集にもみくちゃにされる飯沼飛行士
クロイドン飛行場

この偉業を成し遂げたあと、ブリュッセル、ベルリン、パリ、ローマと各国首都を親善飛行し、行く先々で国賓並みの大歓迎を受け、飯沼飛行士には日本、イギリス、フランス、ベルギー、イタリアからそれぞれ勲章が贈られています。実際、記念館の中には、各国要人との会談や淑女に抱き付かれキスをされているところなどの写真が展示されており、まさにスーパースターです。

その後、日本は、日華事変、大東亜戦争へと突入していくわけですが、飯沼飛行士はパールハーバーの3日後、マレー戦線にて、飛行場の事故により殉死してしまいます。まだ29歳だったそうです。英雄の死は兵士の士気にかかわるということで、1ヶ月間、秘密にされ、さらに死因も事故死ではなく、戦死とされたんだとか・・・。

 

こちらが、飯沼飛行士記念館前の写真
飯沼飛行士記念館

左側の建物が飯沼飛行士の生家で、右側が記念館になっています。そして、その前には、日の丸と共に、ユニオンジャックと朝日新聞の社旗が掲揚されています。さすがに、日の丸とユニオンジャック、朝日新聞の社旗が並んで掲揚されているところって、ここくらいしかないんだろうな~・・・。(^^;

ユニオンジャックは分かるにしても、なぜ、朝日新聞の社旗かというと、飯沼飛行士は所沢陸軍飛行学校でパイロットになった後、朝日新聞社に入社し、通信パイロットとして、大阪ー北京間や東京ー台北間など、飛行ルートの開拓を行ったりしていました。そして、この東京ロンドン間の飛行に挑戦した神風号が朝日新聞社の社機だったためです。

 

記念館隣の生家に置かれている神風号の模型
神風号の模型

ご覧の通り、神風号の機体には、バッチリと朝日新聞の社旗が、個人的には唯一、カッコイイと思える朝日新聞の社旗かな・・・。(笑)

これだけの偉業を成し遂げ、世界的なヒーローになり、しかも男前・・・。何本か映画になっていたって、おかしくないと思うのだけれど、多くの人が戦後、飯沼飛行士の存在を忘れてしまっているのは、個人的には、とても残念に思います。

小さな記念館ですが、安曇野に来られたら、一度、足を運ばれてみるのも、いいかもしれませんね・・・。(^^)

 

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YASUKE YAMURA

これまでのコメント

  1. モラエス饅頭 より:

    飯沼飛行士は男前だけど、塚越飛行士は白人では?と思って調べました。

    <やっぱり日英のハーフでした>
    塚越賢爾は1900年11月3日、東京市麹町区で弁護士・検事の塚越金次郎とイギリス人エミリー・セイラ・ボールドウィンの長男として生まれた。金次郎は群馬県から上京し、明治法律学校卒業を経て弁護士資格を取得。1898年からイギリスに留学し、その最中に看護婦をしていたエミリーと知り合い結婚した。馴れ初めの事情は定かではない。

    • 矢村やすけ より:

      詳しい情報をありがとうございます。
      塚越機関士は、ずっとクォーターだと思い込んでいました。ハーフだったんですね!
      調べていただき、感謝です。(^^)

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