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遭難記念碑と被弾して壊れた馬頭観音像 安曇野空襲

曇り空で、少し涼し気な今日の安曇野でごぜーます。
曽根原家住宅前には、既にコスモスが咲き乱れ、秋の雰囲気が漂っていました。

 

その曽根原家住宅のすぐ近く、道沿いにやや東に下ったところに、壊れた馬頭観音像があります。

 

この馬頭観音像は、昭和20年5月19日の昼頃、安曇野の穂高有明に飛来した1機のB29爆撃機が爆弾を投下し、その際、被弾して壊れたものです。

有明国民学校付近の農地と、市街地の穂高国民学校付近の農地に250キロ爆弾が計17発投下されて、共に死傷者が出ています。なぜ、こんな田舎を空襲したんだろうかと思ってしまいますが、当時、穂高有明には旧日本陸軍松本歩兵第50連隊の演習地があり、有明国民学校や、市街地の穂高国民学校が兵士の宿舎になっていたようなので、そこが狙われたのかもしれません。しかし、実際のところ、任務終了後のB29爆撃機が、余った爆弾を廃棄の為に投下したって説が有力なようです。もしそうならば、廃棄した爆弾で人が何人も亡くなっているわけですから、なんとも、やりきれない話です・・・。

ちなみに旧日本陸軍松本歩兵第50連隊の演習地については、「豊里地区の開拓記念碑」で以前投稿していますので、興味のある方はは、そちらもご覧ください。

 

そして、この被弾して壊れた馬頭観音像がある曽根原家住宅前の道を西にどんどん上がって行き、有明の諏訪神社を左手に見ながら、さらに少し西に上がった道沿いに遭難記念碑がひっそりと佇んでいます。ここが、爆弾が落ちた場所で、当時もここは水田と疎開してきた人たちの開墾畑だったようです。そこに爆弾の爆発で直径10mほどの穴が10個も出来ていたそうです。

穂高空襲の遭難記念碑

 

実際に遭難記念碑を訪ねてみる場合は、諏訪神社辺りから道沿いに西を見た時に、道沿いにある下の写真の木を目印にしてもらうといいと思います。写真の木の下に遭難記念碑があります。

 

ちょっと古いですが、NHKの連続テレビ小説「おひさま」では国民学校の校舎のガラスが爆風によって飛びちる様子が描かれていました。しかし、標的にされたのではないかと言われる国民学校と、この場所では、少々、距離があるので、実際は、爆風で窓ガラスが飛び散るほどではなかったのではないかと個人的には思います。でも、国民学校でも、爆発の際、かなりの衝撃があった事は容易に想像できます。

 

現在、有明国民学校の跡地には江戸川区立穂高荘が建っています。下の写真右の三角屋根の建物が江戸川区立穂高荘です。

 

そして、遭難記念碑の横の田んぼを見ると、既に稲穂が色づき始め、ここも秋の雰囲気を醸し出していました。

 

本日は終戦記念日ということで、安曇野空襲に関わりのある写真を撮ってみました。(^^;

 

 

矢村やすけ: 矢村やすけと申します。 僕が住む、安曇野には八面大王伝説という伝説があります。その伝説の中で、妖力の強い八面大王をうつ為の矢に使う三十三節ある山鳥の尾羽を、矢村に住んでいた弥助が坂上田村麿呂に献上します。現在、僕が住んでいる場所が、その矢村地区に近いので、矢村やすけとしました。 安曇野の地名は、この八面大王伝説由来のものが多いです。そんな伝説に彩られた安曇野の風景を主にスマホ写真で投稿していきます。(^^)

View Comments (2)

  • 穂高の国民学校に、演習にきた兵士が泊まっていたなんて、米軍の情報戦略もすごいものですね。確かに、サイパンには、もの凄い量のB-29爆撃機と爆弾が集積されていたそうで、爆撃目標計画はほとんどこなされてしまったようです。もしかしたら余ったリストの中に国民学校が入っていたかもですね。

    穂高の歴史の良い勉強になりました。

    • 爆弾が落ちているのが、穂高市街地と有明の国民学校近辺の畑なので、計画的に落としているなら、国民学校をターゲットにしていたと思うんですけど、実際のところ、任務終了後のB29が爆弾を廃棄目的で、落としたって説が、現実的な気もします。それが、たまたま2つの国民学校近くに落ちたのではないかと・・・。実際のところ、どうだったのかは分かりませんけど、仰る通り、国民学校を狙ったものであれば米軍の情報はすごいものですよね・・・。

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