穂高有明にて朽ちかけた家を撮りながらとりとめもなく・・・

Pocket
LINEで送る

雨の中、ふと目に飛び込んできた朽ちかけた家の前にカエデが赤く紅葉し、なんか、いい感じだったので撮ってみました。(^^)

穂高有明の朽ちた家とカエデの紅葉

人は綺麗なものや美しいものに惹かれます。それが風景であれば、山だったり花だったり、海だったりと様々なんですが、時には、こんな朽ちかけた家や廃屋に美しさを感じ、惹かれたりする事があります。まあ、わびさび感だと言ってしまえば、それまでなんですけど、外国の人だって、廃屋が好きで、そればかり撮る人だっているわけですし、少なくとも朽木を撮る人は多いと思います。こういった、朽ちていくものに惹かれるって感性は、もしかしたら世界共通なのかもしれませんね・・・。

僕は人間の感情とか感性ってのは、進化の過程で、生存にかかわるところで獲得されてきたものだと勝手に思っています。だから、「美しい」って感性も、進化の過程で、みな、なんらかの理由があって獲得されてきたものだと思っています。

分かりやすいところで言えば、美男美女が平均顔ってのも、生存的な理由からなんでしょうし、花が美しいってのも、氷河時代が終わって、大地に恵みが溢れ始めた象徴だと思えば、それを美しいと感じるのは分かりますし、さらに、そこに飛び交う蝶が美しいってのも、そういった象徴的なものなのかもしれません。

晴れて穏やかな山や川、海には美しさを感じます。やはり、それは恵みの象徴だからでしょうし、逆に、荒れ狂った山や川、海に対して美しさを感じることはあまり有りません。逆に恐怖感が大きくなりますよね・・・。

そうやって考えると、ふと、なぜ、朽ちていくものに惹かれるのかってのを、ちょっと考えてしまいました。朽ちていくわけですから、人にとっての恵みとは、およそ逆のような気がします。でも、よくよく考えてみると、同じ朽ちるでも、食べ物が腐っていく様子に惹かれる事はありません。

美しさを感じる朽ちていく様というのは、こういった古い家だったり、大木だったり、場合によっては岩石の風化だったりと、共通点は、既に人への恵みとなり得なくなった物が、土に還っていく様子や、その象徴だったりする気がします。

植物が育つ事ができるのは、地表の数ミリから数10センチの表土と言われる部分だけです。もちろん、作物もここでしか育つ事ができません。つまり、この部分でしか、人は昔も今も、穀物などの恵みを受ける事ができないわけです。この部分では微生物の活動が活発で、多くの物が朽ちます。

森林の中の大木の多くも、やがては朽ちて表土に還っていくわけですから、朽ちる事は、恵みを提供してくれる表土が作られる過程とも言えるわけです。つまり、朽ちる事は人への間接的な恵みと言ってもいいわけで、それゆえ人は、直接的でない恵みだからこそ、普通に感じる美しさとは違った美しさを朽ちる事に感じ、時として惹かれるのかもしれません。

だから、わび、さびと言った感性も、突き詰めていくと、もしかしたら、土に還る朽ちる事に対する心地良さであり、もっと言えば、生物が生きていく上で、必要不可欠な循環に対する心地良さの感情なのかもしれません・・・。

と、そんな事を、ざーざー降る雨の中、この朽ちた家を撮りながら、とりとめもなく考えていたのだ・・・。(^^;

 

Pocket
LINEで送る

YASUKE YAMURA

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

長野県中部の天気

ツールバーへスキップ