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夏の小岩嶽城址公園

軽い運動を兼ねて、小岩嶽城址の、のろし展望台まで、登ってきました。

小岩嶽城は武田軍との激戦の末に落ちた悲劇の城でごぜーます。

駐車場の脇に建つ模擬門。

 

上の模擬門のすぐ近くにある看板には、次のような説明が書かれています。

小岩嶽城址について
当城は、中世の古厩(ふるまや)郷の領主古厩氏の宿城と考えられ、城域は、今の子岩岳集落も含めた広範囲とされ、現在も集落内には空堀の一部と地割が見られます。また、本郭は約1平方キロメートル、その平は南北135メートル、東西40メートル、北に天満沢、南に富士尾沢と空堀を控えた自然の要害です。
全面に三段の郭、山頂に至る間にいくつかの帯郭。堀切を設け、水源もあり矢竹も自生し、峯の物見は安曇野を一望に収める有名な山城です。
高白斎記によると、天文20年(1551)10月27日武田晴信の軍勢に攻められ、放火されました。翌天文21年8月12日の激戦で城主は自害し、8月14日落城しました。この時の戦いの様子は、勝山記(妙法寺記異事ナシ)に「打取ル頚500余人、足弱(婦女子・老人のこと)取ル事数ヲ知ラズ。」と悲運な最期がしるされています。

この説明にもあるように、武田信玄の軍と激闘の末、悲運な最期を遂げたお城なわけですけど、看板の説明の最後の「打取ル頚500余人、足弱(婦女子・老人のこと)取ル事数ヲ知ラズ。」という一文からも、相当、凄惨な光景が展開されたと思われます。

看板の説明にもある天文21年8月12日の激戦で城主の古厩盛兼は自刃。その後、古厩氏は武田氏に降伏・出仕します。武田氏滅亡、本能寺の変の後、旧領回復に乗り出した小笠原氏に古厩氏は従っていたようですが、天正十一(1583)年に、古厩氏は「逆心」を企てたとして松本城内で成敗され、その頃、小岩嶽城も廃城になったようです。

のろし展望台

 

のろし展望台からの風景

 

この小岩嶽城の物語は、戦った相手が強大であり、その相手に対して、なかなか引かず強かった事、そして、最期は悲劇的である事から、個人的にはなんか八面大王伝説とかぶるものを感じやす・・・。(^^;

小岩嶽城戦没者の慰霊碑。合掌・・・。

矢村やすけ: 矢村やすけと申します。 僕が住む、安曇野には八面大王伝説という伝説があります。その伝説の中で、妖力の強い八面大王をうつ為の矢に使う三十三節ある山鳥の尾羽を、矢村に住んでいた弥助が坂上田村麿呂に献上します。現在、僕が住んでいる場所が、その矢村地区に近いので、矢村やすけとしました。 安曇野の地名は、この八面大王伝説由来のものが多いです。そんな伝説に彩られた安曇野の風景を主にスマホ写真で投稿していきます。(^^)
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