1度きりの人生を幸せに生きる
幸せを感じるライフスタイルの羅針盤!
 
森の中のちいさなお家

ふと、自分はなんのために生きているのだろうかと
思うことはありませんか?
それなりに充実はしているけれど、このまま年月を重ねて
よいのか考えることはありませんか?
そんな時、立ち止まって冷静に自分の心が本当に
欲しているのものは何なのか考えてみませんか。


 

 

 

父の夢見た生活
定年後、森の中の小さな家にこもって、畑を耕したり、山菜採りやキノコ狩り、釣りをしてノンビリと過ごすのが父の夢でした。その夢は僅か1年で終わってしまいましたが、父のホームページを閉鎖するのもしのびなく、そのまま残しています。

 


私は2年連続で、弟と父を亡くしました。
弟は長年、心を患って苦しみ、ある日、突然、呼吸が止まって亡くなりました。
死因は不明でしたが、患った心は肉体をもむしばみ、生きる力がなくなってしまったんだと思います。
弟の死から4ヵ月後に父は胃癌にたおれました。すでに胃癌としては末期状態でした。
手術後、1年の闘病生活ののち、他界しました。

2年連続の家族の死は私を立ち止まらせ、生きること、人生について多くを考えさせました。

特に父の闘病する姿とその死に様は私に多くのことを教えてくれたと思います。

父が亡くなる4ヶ月前に「おれがもし死んだら仏壇に飾っておいてくれ。」と言って書いたものです。
 

父は、とても家族を愛し、不器用でまじめで、生きることそのものに、とても一生懸命な人だったと思います。
まあ、どこの家でもそうなんでしょうが、母とくらべ、私は父と多くの会話をした記憶がありません。 しかし、中学生のときに私はアルバイトで新聞配達をしていたのですが、大雪が降った日に、 無言で新聞配達を手伝って くれたことや、山菜やキノコ採りに行ったことを 断片的にではあるけれども、それは強烈な印象として記憶に残っています。
私は父にとても愛されている事は知っていましたが、 父に対して尊敬の念というものは抱いたことはありませんでした。 どちらかと言えば父はたいした人間ではないと思っていました。

父は高度経済成長時代のサラリーマンであり、会社に人生をささげたようなもんだと思います。
必死に働き、毎晩、付き合いで浴びるように酒を呑み、家族を養ってきました。
まじめに働いて老後の蓄えをして、ようやく自分の好きな生活をはじめて、1年で癌にたおれ、他界してしまいました。

私は父が癌にたおれてから初めて、本当の父の姿を知ったような気がします。
もともと父は家ではほとんど仕事の話をしませんでしたし、多くを語らない人だったので
あまり父のことを知らなかったのだと思います。
最期の入院中ですが、意識が無くなるまで、同室の患者さんや、看護士、医師にまで気を使って心を配り、
みなに迷惑をかけないようにと頑張り続ける姿は昔の武士を思わせました。
また、意識が混濁してからは、幻覚や幻聴に苦しめられていましたが、口走る事のほとんどが仕事のことでした。
このとき私は初めて父はこんなにも強く、これほどまでに一生懸命、仕事をしてきた人だったんだと知りました。

父は潔く、美しい死をむかえる事ができたと思います。
私自身は、正直、父のように美しく死ぬ自信は全くありません。
誇るべき、大した親父だったと今では思っています。


父の死後、いまでも父は果たして幸せだったんだろうか?
私たち、息子に対してどんな思いがあったのだろうか?
と、とりとめもなく考え、そして自分はいかに生きるべきかと思いをめぐらせます。

闘病中に父はよく「こんなふうになっちまったら、金なんかいくらあったて、しょうがない。」と言っていました。
当たり前の話ですが、いくらお金があっても、資産があっても健康でなければ、
おいしいものも食べれないし、遊ぶ事もできません。
これまで私自身は特に健康にかんしては意識した事がありませんでしたが、父の闘病する姿を見て
つくづく、幸せに楽しく生きるためには「まずは健康であること。」だと実感しました。

父は、とても家族を愛した人ですから、ただひたすら家族のために働いたのだと思いますが、
その結果、父にとって一番、大事なはずの家族ではなく、
仕事が全てにおいて優先されるライフスタイルになってしまっていたのではないかと思います。
父はとても不器用な人でしたから、そんな中で自分の好きな事や楽しみまでも犠牲にしていったように思います。
そして運わるく、これから本当に自分の好きなこと、大切なものを中心に据えた生活を送ろうとした矢先にたおれてしまったわけです。
最期まで、父は忙しくて母を旅行にも連れて行ってやれなかった事を悔やんでいました。

私は、もともと大きなお金を稼ぎたい、出世したい、社会的な地位を得たいといった気持ちはかなり強いほうでしたが、
父の死を契機に、なぜ、そう思っていたのか、自問自答を繰り返すようになりました。
その結果、結局はそれは自分自身と家族にいい思いをさせたいからだと気づいたのです。
いい思いというのは、お金持ちになったり、出世する事によって、私や家族が他人に対して鼻が高いという
単なる見栄を実現するためだけであることに気づいたのです。
私が一番、大切な家族にいい思いをさせるために、結局は家族は後回しになり、
自分の中で優先されるもの、人生の中心は仕事になっている事に気づいたのです。
目的と手段が逆になってしまうライフスタイルを突き進みつつあったわけです。
まずは仕事を優先に考え、それによって住む場所や付き合う人間まで決めようとしていたのです。

私にとって、一番、大切なもの、それは家族の幸せです。
まずは家族や楽しむ事を中心に据えて、そこから手段である仕事を考える事にしたのです。
すると、おもしろい事に仕事にかんしても、とっても楽しいものが見えてきました。

人それぞれ、一番、大切なものは違うと思いますが、いま自分が必死になっている事、悩んでいる事、
頑張っている事、その根本にある、自分の心の本当に欲しているもの、それを中心に据えれば、
何かが見えてくるかもしれませんよ。

こんなふうに書いてしまうと、当たり前のことなんですが、
実際に自分の心が本当に欲しているもの探り出し、
それを生活や人生の中心に据える事は大変なことだと思います。

人はみな、それぞれの常識をもっていて、その常識に従って生きています。
これによって縛られ、自分の心が本当に欲しているものが見えなくなっている事が多いのではないかと思います。

一度、常識という拘束衣を脱ぎ捨ててみませんか。

 

Check  

 

BACKNEXT