吾唯足知京都の龍安寺というお寺に、右の図のように彫られたつくばいがあります。
このつくばいは、あまりにも有名なのでご存知の方も多いと思います。真ん中の水を入れる四角を共有すると上から時計回りに「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」と読めます。文字通り読めば「私は満ち足りていることだけを知っている」という意味でしょうか。「吾唯足知」というのは、もともと禅問答のようですから、本来は一生かかっても悟る事ができないような、きっと難しい意味なのだと思いますが簡単に言ってしまえば「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者はたとえ金持ちでも不幸である。」ということかと思います。 この満足することを知るということは幸せに生きる為には、とても大切な事だと思います。

例えば今ではどこの家にも当たり前のようにある、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、電子レンジ、パソコンなどの電化製品が、あなたの家にだけは一切なかったらどうでしょうか?皆の家にはあるのに自分の家にだけは無い、そんな状況を想像してみて下さい。私ならきっと、みじめで不幸な気分になると思います。でもたった半世紀前の日本の家にはこれらの電化製品は一切なかったわけです。それでは当時の日本人が皆、不幸だと思って生きていたかといえば、そうではないと思います。現在でも極端な話、アマゾンの未開地では電化製品なんか一切ない生活を送っている人がたくさんいます。彼らが不幸を感じて生きているかといえば、やはり違います。かえって我々よりはるかに幸せを感じて生きているかもしれません。つまり皆がそれを持っていなければ、もっと極端に言えば、そんなものの存在を知らなければ、その状態で「満足することを知る」ことが出来るわけです。
そう考えると私たちは極めて相対的なことで幸せや不幸を感じているのかもしれません。

私には精神的な部分に関しては誰よりも分かり合える小学校以来の親友がいます。
大人になってから「彼の家は、とても貧乏だった。」という話を彼から聞いて、とてもビックリしたことがあります。
なぜなら子供の頃しょっちゅう彼の家に遊びに行っていましたが、一度も彼の家が貧乏などとは感じた事がなかったからです。 お金が払えなくて、電気やガスを止められるなんて事は日常茶飯事だったそうです。
そういえば、「昨日は家族みんなでローソクを1本立てて、夕飯を食べた。」と、とても楽しそうに話す彼のことを記憶しています。あまりに楽しそうに話すので、当時、私は楽しいイベントの話を聞かされているような気がして羨ましく思ったりしたことを覚えています。実際、大人になった今、当時の事を思い出してみてもそれは彼の中ではやはり楽しい思い出のようです。
本来ならみじめに思うことを彼はとても楽しく感じていたのです。

彼の両親は敬虔なカトリック教徒でしたから、それは信仰に支えられたものだったかもしれませんが・・・
今では彼は医者になり、世間ではどちらかといえば裕福な部類に入るでしょう。
そんな彼が母親に一度、贅沢な思いをさせてやろうと、お母さんをハワイ旅行に連れて行ったそうです。
超一流ホテルに泊まり、超一流のレストランで食事をしても彼のお母さんは、それほど嬉しそうな顔をしなかったそうです。 たまたま夜、ホテルの部屋でお母さんがお腹が空いたと言ったので、ちょっとしたパンをルームサービスに持ってきてもらったところ、そのパンにバターを塗って「おいしい。」と言って幸せそうに食べる母親の顔を見て彼は愕然としたそうです。
今まで一体、自分は何を追い求めてきたんだ!人生において自分はまだ母親の足元にもおよばない。」と。
きっと彼のお母さんは、それは信仰によるものかもしれませんが、我々とは違う次元で満足することを知っていたんだと思います。
そんなお母さんのいる家だったからこそ、少年時代、電気を止められローソクをたてて食事をしても彼は楽しかったんだと思います。

人間の欲望は際限がありません。
それを追い求め続けてもきりがありません。
どこかで満足することを知らなければ幸せにはなれません。

逆に、あなたの心の欲するものや夢に到るための条件が自分には無いとあきらめていませんか?
今現在の条件に満足することを知らなければ、心の欲する幸せにはたどりつけません。

あなたは、どこで満足することを知りますか?

吾唯足るを知る”よく考えてみたい言葉です。