貞享義民記念館 一揆って反乱のことじゃなかったんだ!!

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一昨日、久々に青空が見えたと思ったら、昨日は雨、そして今日はまた晴れと、安定しないお天気の安曇野です。それでも、少しお山も見えたので、赤く色づいたリンゴと一緒に常念岳を堀金近辺で撮ってみました。

リンゴとお山(常念岳)

 

そこから三郷へ向かったんですが、いつも通り過ぎるだけの貞享義民記念館(じょうきょうぎみんきねんかん)に、久しぶりに立ち寄ってみました。貞享義民記念館は貞享3年(1686年)に中萱村元庄屋多田加助を中心とした百姓一揆、貞享騒動について保管施設として建てられている記念館です。

 

貞享義民記念館を外から。

貞享義民記念館

貞享義民記念館

 

貞享騒動については、ご存知ない方のほうが多いと思いますので、記念館の道を挟んで向かいの貞享義民顕彰慰霊碑の横に立っていた看板に概要が書かれていたので、それをそのまま下に記しておきます。

貞享騒動の概要

 

今から三百年前の貞享(丙寅)三年(1686)、松本藩主水野忠直公の時のことである。
この年藩主は参勤交代で江戸に居た。

松本藩の農民に課する税(年貢)は近隣の他領に比べて厳しかった。
即ち約70年前に松本藩から分かれた諏訪領の東五千石と、高遠領の西五千石の村々は、分れた当時のままに籾一俵は米二斗五升挽であったのに対して、松本藩領はその後の藩主によって三斗挽改められ、水野氏もそれをそのままに引継いでいたのである。松本藩の農民はこの近隣の二斗五升挽を常にうらやみながらも、やむなく耐えていた。従ってその暮しは明らかに苦しく、その上近年不作の年が多く一層に困窮していた。
然るにこの年収納に当って代官の命を受けた納手代はのぎふみ磨きと三斗四・五升挽を厳命して来た。このため農民の悲憤はやるかたなかった。

 

このような苛酷な重税に苦しむ農民を身を投げうって救おうと多田加助を頭領とする同志の者は、十月十日夜、密かに権現のの森(熊野神社)に集って協議し、籾一俵を両五千石並みに二斗五升挽にすることを主とする五か條の訴状をしたためて、十月十四日郡奉行所へ訴え出た。この企がどこからか洩れて、たちまち領内の村々へ伝わると農民はこの企に加勢せんと蓑笠に身を固め、鋤鍬を得物に四方より城下へ押し寄せた。

 

思いもよらない突然の大騒動に驚き、あわてた藩の畄守居は、これをなだめ、鎮めようと種々の策を講じたが農民達はいっこうに聞き入れず、その数は益々増加して十六日には万余に及んだと伝えられている。そして遂には町内の挽屋・庄屋等五軒の家へ大勢で押し入って家を壊し、物を奪い取るなどのこともでてきた。

 

困惑した藩側は、十六日の晩に同日付郡奉行名を以って籾納はこれまで通り一俵三斗でよく、のぎふみ磨きは無用であるとしたほか、他の項目もほとんど聞き入れる旨の証文を認めて組手代達に渡した。

十七日朝、組々の組手代からこれを見せられた農民の、その大半は一応ひと安堵して各組手代の説得に応じて、それぞれの村へ引き上げた。

しかし加助ら同志と百数十人の農民は、あくまで二斗五升を要求すると共に家老の証文を求めて退かず城下に畄まっていた。

 

家老らは騒動の長引くことと、或は加助らが江戸表へ直訴することを恐れて窮余の末、遂に偽りの策のもとに十八日の夕刻に至って、二斗五升挽も聞き届ける旨の家老連判の証文を出した。これを畄まる者達に知らせると共に、翌十九日には、この証文を各組々へ届け渡した。これによって加助ら同志と居残った農民は喜び勇んで残らず村々に帰り、騒動は数日にして全く鎮った。

 

ところがその後、種々の口実を設け、或は手段をめぐらして、百姓同意の連判のもとに、組手代をして、この証文を返上させてしまった。そして江戸へは、真相を密して注進し、藩主を欺き、遂にはその裁許のもとに加助らは処刑されるに至った。

 

即ち、騒動の一か月後の十一月十六日の未明から加助ら同志の者達は子弟もろ共に一斉に捕縛投獄され、その数日後の十一月二十二日に安曇郡の者は勢高に設けられた臨時刑場において、筑摩郡の者は出川の藩の刑場において、ことごとく磔或は獄門の極刑に処せられて終わった。

 

その数は磔八人、獄門二十人で百姓一揆史上まれに見る多数であった。

加助は最後十字架上から城をにらみ、“二斗五升”と絶叫して息絶えたと言う。

もともと加助らは、累の農民に及ぶを憂えて、同志の者達だけの意図で、妻は離縁し、子は勘当して我が身のみは決死の覚悟で立ち上がったのであるが、伝え聞いた農民は黙し得ず、期せずして領内一円の大騒動となり、その結果、この騒動の首謀者ことごとく、その子弟もろ共に極刑に処せられて、農民の犠牲となったのである。

 

昭和六十一(丙寅)年十一月
貞享義民三百年記念実行委員会
貞享義民社奉賛講

 

概要を読んでもらうと分かる通り、重い年貢に苦しむ農民の中から多田加助を頭領とする同志の者が、藩に直訴するわけですが、それに、他の多くの農民が加わって大騒動に発展し、結局、騙されるような形で、首謀者は捉えられて処刑された事件です。貞享義民顕彰慰霊碑には、処刑された人々の名前が彫られています。

首謀者らの子供まで処刑されています。加助の参謀格であった小穴善兵衛の16歳になる娘しゅんも処刑されていますが、当時としては娘まで処刑されるのは異例なんだそうです。さらに、事件後に産まれて来た、この小穴善兵衛の男児の赤ちゃんにまで死刑宣告がくだされたそうです。こちらは、赤ちゃんがすぐに病死してしまい執行にはいたらなかったようですけど・・・。

とにかく、首謀者らには苛烈な刑が容赦なく執行された感じですよね・・・。

 

貞享義民顕彰慰霊の碑

貞享義民顕彰慰霊の碑

この処刑者名の中には、僕の知り合いのご先祖様も含まれているんですが、貞享騒動は江戸時代の初め頃なのに、知り合いの話では、明治に入るまで、村八分にされたり、罪人を出した家として周囲から監視を受けていたそうです。刑の苛烈さや、こんな話を聞くと、当時の松本藩が、この事件を徹底的に抑え込もうとしたであろう事が、伺えます。

 

ちなみに、貞享義民記念館内に展示されている下の写真の臼は、僕の知り合いの家にあったものだそうで、昔、今は展示物となっているこの臼で、実際にお餅をついた事もあったそうです。

貞享義民記念館内に展示されている臼

 

当時、百姓の藩への訴訟の手順は以下のようになっていました。

百姓 ⇒ 庄屋 ⇒ 組手代 ⇒ 組代官 ⇒ 郡奉行 ⇒ 家老 ⇒ 藩主

貞享騒動では、郡奉行所に訴え出ています。加助を含め首謀者の多くが庄屋だったと思うので、2つ飛び越した越訴(おっそ)をしているわけですね。当時、この手順を守らない越訴は禁じられていて、これを犯したものは、たとえ、訴訟内容が道理にかなっていても処罰されたそうです。

だから、加助ら首謀者は、ごく内輪での越訴を試みたんでしょうけど、騒ぎが大きくなり、中には城下で狼藉を働く者も出たりしたために、厳しい処罰になってしまったのかもしれません。当時の越訴がどの程度インパクトのある罪だったのかは、僕には想像がつきませんけど、それでも、狼藉を働いたものではなく、越訴した首謀者らが、その家族まで処刑されるのは、ちょっと納得いかない感じがあります・・・。

 

一揆は反乱や暴動を意味する言葉じゃない!!

貞享騒動は百姓一揆なわけですけど、みなさんは百姓一揆という言葉から、どんな様子をイメージしますか?
僕は百姓が鍬や鋤を武器に領主側と戦っていたり、暴動を起こしていたりってのをイメージしてしまいます。土一揆とか一向一揆とかも、やはり戦いや暴動のイメージがあります。だから僕は一揆って言葉は反乱や武装蜂起を指す言葉だって感覚がありました。世界史とかで出てくるミュンヘン一揆とかも、やはり、反乱や暴動の意味合いが強いですし・・・。

でも、貞享騒動は、越訴して人が集まっただけで、武装蜂起はしてないですよね!

僕はお恥ずかしながら、一揆という言葉が、反乱や暴動を指す言葉ではないと知ったのはつい最近です。8月に一週間ほど入院した時に、暇にまかせて病院にあった「日本とは何か」って本を読んで初めて知りました。(^^;

一揆とはもとは、一致協力するといったような意味合いだそうで、考えを同じくする人々が集まり、盟約や契約によって結成した政治的共同体のようなもののようです。現在だと、政治結社的な感じなのかもしれません。

この一揆で盟約を結ぶ時に、起請文などを記し、各自署名したうえで燃やして灰にし、それを神前に供えた水に混ぜて、皆で回し飲みして団結を誓う儀式を行ったんだそうで、この水を一味神水(イチミシンスイ)と言うそうです。

もちろん、一揆が反乱や暴動などの武装蜂起につながる事もあるわけですけど、一揆そのものは、あくまでも、盟約に基づく政治的共同体であって、反乱や暴動などを意味する言葉ではないって事です。それが、江戸時代に入って幕府が、一揆の盟約による政治的共同体を結成すること自体を禁じた為、一揆という概念が百姓などの非合法な権利行使運動に変わって、そこから、現在では、一揆という言葉が反乱や暴動のイメージに変わってしまったのかもしれませんね・・・。

そもそも、中世後期の日本社会では、庶民から大名にいたるまで一揆契約を結んでいたみたいですから、もともとは、ある意味、当たり前のものだったんでしょうね・・・。

 

 

ここで話をもう一度、貞享義民記念館に戻します。
貞享義民記念館と道を挟んで、貞享義民社、通称、加助神社があります。その裏手には、加助のお墓もあります。

 

貞享義民社(加助神社)

貞享義民社(加助神社)

 

多田加助のお墓

多田加助のお墓

 

この貞享義民社(加助神社)について、ウィキペディアより以下、引用します。

1725年、時の藩主水野忠恒が江戸城内で刃傷沙汰に及び改易となり、知行権が戸田松平家に移ったのを契機に義民の顕彰が始まった。

 

事件発生後50年を迎えた1736年、多田家では加助や処刑された一族を祀る祠を屋敷神として敷地内に建てた。また、貞享騒動五十年忌の供養塔も地元の人々によって楡(小穴善兵衛の地)の精進場に建てられた。

 

騒動二百年祭(1880年)に際しては多田家の祠を旧郷倉跡に移し、社殿を造営。これが加助神社の始まりである。その際、多田家以外の義民も合祀された。

 

なお、明治になって水野家から加助坐像と金一封が加助神社に寄贈された(この坐像は騒動後、「加助のたたり」を怖れた元藩主水野氏が作らせて邸内に置いてあったもの)。またこの際、水野忠直も合祀された。

 

上の引用の最後に、さらっと、「水野忠直」も合祀されたって書かれてますけど、これって、何気に凄いですよね。たしかに、騒動の正しい詳細は時の藩主、水野忠直には届かず、ある意味、水野忠直も欺かれていたとは言え、加助らの処刑を許しているのは、水野忠直なわけですから、それを、加助ら同志と一緒に合祀しちゃうって、ある意味、凄く日本的な感じがします。今では、みな同じ神様になって、仲良くやっているんでしょうか・・・。

 

 

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YASUKE YAMURA

これまでのコメント

  1. Toshiyuki より:

    はじめまして。
    安曇野へ宿泊旅行をする前に、宿のwebページのリンクにあったのを拝見し、その後なぜかこの記事が気になり何度か読み返しています。
    県外ということもあってか、この話は知りませんでした。
    辛い時代を乗り越え、いまがあるのですね。
    この地の人々がどんな歴史を経て今に至るのか、寒さなど厳しい自然とどう向き合ってきたのか、興味が湧いてきました。
    近いうちに記念館に行ってみようと思います。
    安曇野の自然もより好きになったので、更新を楽しみにしております。
    (宿も、今までで一番のお気に入りになりました、これからは毎年行きたいと思います。)

    • 矢村やすけ より:

      興味を持って頂けたようで、とても嬉しいです。ありがとうございます(^^)

      歴史ということで言えば、安曇野は山国であるにも関わらず、北九州で勢力を誇っていた海の民である安曇族が開いた土地です。とても謎が多く、古代史ロマンが香る場所でもあります。以前、安曇野の歴史に興味をお持ちのお客様をご案内させて頂いた事があります。その時の記事がありますので、案内させてもらった場所を調べてもらえると、楽しいかもしれません。また、安曇野を巡る参考にして頂けたらとも思いますので、ご覧になってみて下さい。
      http://yamura-yasuke.club/?p=4934

      あと、本日、安曇野の紅葉情報の記事を投稿させて頂きましたので、紅葉の時期に来られるのでしたら、訪ねる場所の参考にして頂けると嬉しいです。
      http://yamura-yasuke.club/?p=5666

      にし屋別荘さんも、とても雰囲気のある、お宿なので、素敵な時間を過ごしてもらえるのではないかと思います。是非、安曇野を満喫されて下さいませ。お天気が良いといいですね!!(^^)

      とても嬉しく励みになるお言葉を頂き感謝です。
      ありがとうございます。(^^)

  2. Katsuko Miyake より:

    こんばんは。
    いつも読ませて頂いています。
    FBでは屁理屈のような事をお伺いしたり。
    いつも安曇野という響きに優しさを感じます。
    貞享騒動については全く無知でした。
    ブログ、ほっこり安曇野屋を読ませて頂きながら、
    安曇野と言う地名の響きと自然の美しさは、
    先人の隣人を想う魂が受け継がれているのかと、心に抱いています。
    今の世間に、この人を想う心の雫一滴でもあればと想う私でございます。
    心に染み渡るブログを読ませて頂きました。
    リンゴが色づいて、そちらの秋は加速し始めたようでございますね。

    • 矢村やすけ より:

      わざわざ、ブログにまでコメントを頂き、ありがとうございます。
      安曇野っていう響きが好きだって言われる方は、けっこう多いですよね。
      僕もなんか好きです。(^^)

      こんな山の中なのに、「安曇野」や「穂高」といったような地名は、みな海洋文化の影響を受けてるわけで、なかなか面白いです。
      安曇野に対して思いを寄せて頂けるのは、とっても嬉しいです、こちらこそ、ありがとうございます。(^^)

      いよいよ、これからは紅葉が待ち望まれる時期に入ってきました。(^^)

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