学ぶ喜びとか・・・娘の修学旅行に思う

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日付が変わってしまったので、今日から、中学の娘が京都、奈良方面に修学旅行に出掛けます。

僕が、中学の修学旅行で思い出されるのが、当時、中学2年生の後半からだったと思うのですが、修学旅行用のノートを作らされ、仏像やらお寺やらの事を、えらく、調べてまとめさせられたことです。

その時は、それが、けっこう苦痛でした。楽しくそのまま旅行に行けばいいのに、いちいち勉強させられるわけですから、所詮は、学校の旅行だ!なんて思ったものです。ところが実際に、そのお寺を訪ねたり、仏像を見たりした時に、「あ~、もっと勉強しておけば良かった・・・。」と強く感じた事を今でも憶えています。

そう言えば、娘が修学旅行用の勉強をしているところを見た事が無かったので、京都や奈良のお寺の事とか勉強したのか聞いてみると、ほとんど、やってないとの事・・・。

まあ、修学旅行に行くってだけでも、楽しい思い出にはなるんでしょうけど、その話を聞いて、僕はとても残念な気持ちになりました。お寺や仏像も、ある程度の予備知識が有るのと、無いのとでは、見た時の感覚が全く違うはずだからです。全く予備知識を持たない状態では、余程、感性が鋭くでもない限りは、大仏デケー!とか、立派な寺!とかくらいで終わってしまいます。

僕は修学旅行で、実際にお寺を訪ねたり、仏像を見たりした時に、「あ~、もっと勉強しておけば良かった・・・。」と強く感じると同時に、「だから勉強させられたのか!」と思ったものです。

自分が中学生の時の事を考えてみると、学校の勉強なんてのは、基本的には、それほど楽しいものではありませんでした。でも、「一生涯死ぬまで勉強」とか「学ぶ事は人生を豊かにする」とか「学ぶ事は喜び」とか、そういった言葉は、よく言われたり、どっかどうかで耳に入ってきました。別に、それが間違ってるとは思わなかったし、たぶん、そうなんだろうとは思いましたけど、ただ、中学生の僕には、それらの言葉の実感はありませんでした。

それが、修学旅行に行って、「勉強しておいた方が物事、楽しめるんだ!」「学ぶって事は楽しい事なんだ!」と、実感として、それを捉える事が出来たんですよね。今になって考えてみれば、この実感が、僕が当時の修学旅行で得た、一番、大きなものだったような気がします。

だから「ほとんど勉強してない。」っていう娘の言葉は残念に感じましたし、僕らの頃みたいに、しっかり学校で勉強させて欲しかったとも思ってしまいました。まあ、時代が違うので、当時のようにもいかないんでしょうけど・・・。(^^;

 

威張って言う事でもないですけど、僕は今でも勉強は嫌いです。でも、学ぶ事は大好きです。楽しいからです。その辺の道を歩いていたって、道の脇に生えている草が分れば、それだけで色々と楽しめます。全く分からなければ、意識する事もなく通り過ぎてしまう路傍の草も、分れば、時として、こんなところに、こんな面白いものが生えてる!と、感動があったりします。そこから、さらに好奇心と楽しみが広がったりします・・・。

僕は長野県人ではありますけど、安曇野育ちではありません。だから、最初、安曇野に来た時は、周りに自然があて、いい所だなーくらいの感覚でした。それが当時、PCの個人レッスンをさせて頂いた、おじいさんに連れて行ってもらった喫茶店で手にとった本に、八面大王伝説や安曇族の事が書かれており、安曇野は、なんて面白い場所なんだと興味を持ちました。そして、安曇野が少し分かって来ると、それまで何となく見ていたお寺や神社、美術館なども、いちいち面白く、色々と調べたりするようになりました。

安曇野は、今でも歴史や自然等、色々なものが僕にとっては興味の対象で、日々、学び、楽しませてもらっています。もし、そうでなかったなら、安曇野も日常生活の中で、とっくに色褪せたものになってしまっていたような気がします。

 

同じ場所に住んでも、同じ物を扱っても、同じ事をしても、学べば、それは楽しいし、学ばなければ色褪せてしまいます。子供の頃、聞かされた言葉通り、学ぶ事によって感動と好奇心が生まれ、それが人生の日々を豊かなものにしてくれるんだと思います。

 

中学の修学旅行で、僕は、それを実感として学んだ記憶があるので、娘から、ほとんど勉強せずに修学旅行に行く事を聞いて、せっかく大切な事を学べるかもしれない機会なのに、なんて勿体ないんだ!と思い、長々と書いてしまいました・・・。(^^;

 

 

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YASUKE YAMURA

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