乳房橋と特攻隊員の遺書
ちょっとインパクトのある橋の名前ですが、けっして「おっぱい橋」ではございません。(^^;
この橋の下を流れる川の名前を普段、僕は乳川(ちがわ)と呼んでいますが、正しくは穂高川、もっと正しくは乳房川ってことだと思います。この橋の少し上流で乳川と中房川が合流し、乳房川になり、そして、直ぐに烏川と合流して穂高川になるって事だと思います。だから、乳川の「乳」と中房川の「房」を合わせて乳房橋です。(^^)
この乳房橋からの風景が僕は好きで、よく写真を撮りやす。
そして、ここからの風景が素晴らしい時ほど、この風景を見ていたであろう上原良治少尉を思い出し、グッとくるものがあります。まずは、下のYoutubeにアップされている動画をご覧下さい。これを見て泣けない人は、まず、いないんじゃないかと思います・・・。
いちおう、この動画の上原良治少尉の「所感(特攻出撃の前夜の手記)」をテキストでも書いておきます・・・。(^^;
所感
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。
人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。
自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。
現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。
既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。
操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。
精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。
一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。
ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。
愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。
天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。
過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。
何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。
明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。
彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。
ではこの辺で。
出撃の前夜記す。
上原良治少尉の遺品にはクローチェの哲学書があり、ところどころに印がつけてあり、印のあった文字を繋げると次のように読めました。
「きょうこちゃん、さやうなら。 僕は きみが すきだった
しかし そのときすでに きみは こんやくの人であつた
わたしは くるしんだ。
そして きみの こうフクを かんがえたとき あいのことばをささやくことを だンねンした
しかし わたしは いつもきみを あいしている」
ちなみに「きょうこちゃん」というのは、幼馴染の石川冾子さんの事で、他の人との婚約の翌年に結核で病死しています。
上原良司少尉のこの遺稿は「聞け わだつみの声」の初めにも収録されています。
安曇野の池田町で生まれ、現在の安曇野市穂高有明で育ち、旧制松本中学から慶應義塾大学経済学部へすすみ、その後、学徒出陣で陸軍松本五十連隊入営しています。
そこから熊谷陸軍飛行学校へ入校し、卒業後、特攻命令を受けて、昭和20年5月11日に第五十六振武隊隊員として三式戦闘機「飛燕」に搭乗して、沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入し、22歳の若さで戦死しています。
上原良治少尉は、突撃前の束の間の休暇を、この乳房橋から300メートルほど西の開業医だった実家で過ごしています。その際、「日本は敗れる。俺が戦争で死ぬのは愛する人達のためだ。戦死しても天国に行くから靖国神社にはいないよ。」と、家族に話し、はらはらさせたそうです。
軍に戻る時、遠くなった見送る家族に向かって、この乳房橋のたもとから、大声で「さようなら」と三度も繰り返し、別れを告げたそうです。それまでに聞いたことのない大きな声に母親は「良司は死ぬ気でいるんだ。最後の別れに来たんだ。」と悟ったそうです。
昨日、投稿させて頂いた新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵が故郷に戻り、「蚕種製造論」という本を著した歳、つまり、まさにこれから羽ばたく歳に上原良治少尉は散っているわけで、なんともやりきれない感じがしてしまいます。
しかも上原良治少尉の実家と相馬愛蔵の生家は車なら10分とかからない距離ですし、お二方とも同じ僕の母校の先輩でもあるので、余計になんとも言えない気分になりやす・・・。
上原良治少尉の遺稿には、「自由主義」という言葉が踊り、体制批判が感じられ、当時のものとしては、やや異色なものだと思います。それ故、余計に生の気持ちが、そのまま表れているように思います。そして、身近な人を愛し、故郷を愛し、国を愛する気持ちが溢れているように感じられます。それは、両親に宛てた遺書や遺詠にもよく表れているような気がします。
遺書
生を受けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かき御両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事が出来ました。
そしてややもすれば我ままになりつつあった事もありました。
この間、御両親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。
それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が、孝行する事であると言う日本に於いては、私の行動をお許し下さる事と思います。
空中勤務者としての私は、毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。
一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。
高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。
このまま突っ込んで果して死ぬのだろうか、否、どうしても死ぬとは思えません。
そして、何かこう、突っ込んでみたい衝動に駈られた事もありました。
私は決して死を恐れてはいません。
むしろ嬉しく感じます。
何故ならば、懐かしい龍兄さんに会えると信ずるからです。
天国における再会こそ私の最も希わしい事です。
私はいわゆる、死生観は持っていませんでした。
何となれば死生観そのものが、あくまで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確の死を怖れるの余りなす事だと考えたからです。
私は死を通じて天国における再会を信じているいるが故に、死を怖れないのです。
死をば、天国に上る過程なりと考える時、何ともありません。
私は明確に云えば、自由主義に憧れていました。
日本が真に永久に続くためには自由主義が必用であると思ったからです。
これは、馬鹿な事に聞えるかもしれません。
それは現在、日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。
戦争において勝敗を見んとすれば、その国の主義を見れば、事前に於て判明すると思います。
人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るより明らかであると思います。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上はただ、日本の自由、独立のため、喜んで、命を捧げます。
人間にとって一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は、実に些細な事です。
驕れる者久しからずのたとえ通り、もし、この戦に米英が勝ったとしても彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでしょう。
もし敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により、粉となるのだと思うと、痛快です。
しかしのみならず、現在生きて良い気になっている彼等も、必ず死が来るのです。
ただ、早いか晩いかの差です。
離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。
開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい。
ではくれぐれも御自愛のほど祈ります。
大きい兄さん、清子始め皆さんに宜しく。
ではさようなら、御機嫌良く、さらば永遠に。
御両親様へ
良司より
遺詠
ふるさとの山に向いて言うことなし ふるさとの山はありがたきかなかにかくに有明村は恋しかりけり 思い出の山思い出の川
若き血は燃えて往かんかな 大君に召されし我れはいざ
遺書に出てくる龍兄さんというのは、軍医として従軍し、戦死したお兄さんの事で、本箱の右の引出しの遺本というのが、恋文の書かれていたクローチェの哲学書の事だと思います。
ちなみに、遺詠の2番目は石川啄木の「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」をパクったものだと思われますが、いずれにしても故郷への思いが感じられます。
上原良治少尉の遺稿は、学者さんや主義主張をされる方々によって、色々な意味を持たされて書かれているのを見ました。それぞれ読むと「なるほど・・・」と思わされます。彼は自由主義者でしたし、当然、主義主張があったかと思います。
しかし、僕はいつも、この乳房橋のたもとに佇んで写真を撮る時、その風景を眺めながら「あー、彼が守りたかったものは、これなんだろうな・・・。」と、その思いが心に沁み込んでくるような感覚に捉われます。「これ」ってのは、故郷の風景だったり、近しい人だったり、色々な物を含んだ「これ」で、言葉ではうまく説明できないんですけど、でも、いつも「これ」なんだろうなって感じてしまうのです・・・。(^^;
乳房橋からの風景
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上原良司さんのように誠実で賢く優秀な方が戦争で命を奪われたのは非常に残念です。
何の罪もない人が大勢亡くなった戦争は、二度と繰り返してはならない。
ほんと、そうですね。コメント、ありがとうございます。
当時を経験された、お年寄から「戦争だけはいけない。」という言葉を、子供の頃からこれまで、よく聞いてきました。
戦争というものの実感が薄れてきてしまっている現在、我々が噛みしめなければいけない言葉だと思います。